無意識の志向性を意識化してテキストを読む — 古典解釈における観心の試み —

東洋医学の臨床や古典(原典)の読解において、いかに自身の思い込を減らすことが重要なのか、そのための修行論をAIさんに批判してもらいながら考えてみた。

自分の無意識の指向性を意識化するということ

原典をいくら厳密に読み込もうとしても、読む側自身の「個的な意識」の志向性が無自覚なままであれば、結局は我執が作り出す「オレ様流解釈」のタコツボに落ちていく危険がある。

だからといって、完全に無前提で原典を読むことができるわけでもない。問題は、自分がどのような意識の志向性からテクストを読んでいるのかを自覚し、その個的な意識の働きを一旦停止・解体しながら論じることだと思う。

そうした自分の無意識の志向性を意識化する修行を経ずに他者の解釈を批判しても、自分とテキストの作者とでは前提となっている意識の立ち位置そのものが異なるため、本来作者の意図したこととは違う解釈をしてしまうことが多々ある。たとえば人は時代の思潮を無意識的に受けて何かを解釈する傾向にあるといったことだ。たとえば戦前の日本なら皇国史観で世の中を見るとか、昭和の中頃に流行った共産主義・社会主義思想でもって世の中を見るといったことだ。

伝統を学ぶことは、そうした独善的な解釈を相対化するための有効な方法のひとつではある。そこには批判と修正を経た上で築かれたものが残っていることが多い。ただ、伝統において「言語化された形」だからかならずしも正しいとは限らない。伝統の中にも、誤った理解や、その時代でのみ通じる解釈は当然あり得る。伝統仏教の中にも祖師の思想に対する違った解釈で流派が別れたりする。

自分の無意識的な指向性を意識化する実践として、まず相手の思考のプロセスを内側からたどってみるという方法論がある。たとえば先の共産主義・社会主義思想の人がその志向性をいったんすてて、皇国史観の思想を無前提にたどり、理解しようとする方法だ。これは単なる「相手を理解しましょう」という認知的・心理学的な話ではない。

他者の思考のプロセスをたどる

自分自身の意識の志向性を一旦停止し、自分が普段立っている個的な立場から離れて、相手が立っている場所から世界を見ようとすることだ。相手が何を前提とし、何を見て、何を見落とし、どのような連想や論理を経てその結論に至ったのかを、追体験してみるという方法だ。

こうした方法は、単なる読書技法にとどまらず、広義の神秘哲学や伝統思想に見られる「観心」的な実践とも通じるものがある。すなわち、個的な意識の枠組みを緩め、その働きを一旦停止し、表層の言葉の奥にある「他者の意識の構造」へと参入していく。

そこには、単に他者を理解するという意味を超えて、個を超えた意識の実態へと接近し、あるいはそれと合一しようとする、神秘学的な意味を見いだすこともできる。

もちろん、他者の意識そのものに完全に入り込めると断定することはできない。表層の言語や概念を通して相手を理解しようとする限り、そこには必ず自分自身の認識や偏見が混入する。

だからこそ、そうした「作り出された意識(造作)」を少しずつ削ぎ落とし、自分の側からの混入をできるだけ少なくしていくこと自体が、瞑想的な修行になる。

思想の曼荼羅を作る

そうやって、自分とは異なる多様な思考のプロセスをひとつひとつたどり、さまざまな伝統や思想の中にある思考経路を重ねていく。すると、個々の主張の正誤という表層の解釈にとどまらず、それぞれの人がどのような意識の位置(志向性)から世界を切り取り、それを言語化しているのか、その「思考の立ち位置」が少しずつ見えてくる。そうして多様な思考の立ち位置を、ひとつの「曼荼羅」のように配置していくのである。

最後には、その曼荼羅を描いている自分自身も、その曼荼羅の中に置かなければならない。「自分は相手を理解できている」と思った瞬間、その理解そのものが再び個的な意識の作意によって構成され、いわゆる独善的な「魔境」に落ちている可能性があるからだ。ここでいう魔境とは、瞑想や認識の過程で生じる経験や理解を、自己の作意によって絶対化してしまう状態として考えることができる。したがって、瞑想修行の深化によって個的意識の造作が解体されていけば、「作り出された意識」と「非造作の意識」との違いが、修行者自身の内的な経験として明瞭になっていく、と神秘哲学・宗教哲学では考えられてきた。たとえば仏教の論書にはそういった議論が展開されているものがたくさんある。

ただし、それが本当に個的な志向性を超えた「非志向性の意識」であるのか、それとも高度に形成された別の意識状態をそのように解釈しているのかという問題は残る。この問いそのものから逃げないことも、修行の一部なのだと思う。だからこそ、この修行には終わりがない。

自分の個的な意識の志向性を一旦止め、他者の思考のプロセスをたどる。そこから戻ってきて、自分自身の立ち位置を眺める。そして、また別の他者の立ち位置へ移動してみる。そうやって多層的な意識の位置を往還し、さまざまな表現や言葉の背後にある構造を見つめていく。その過程で、異なる伝統や思想が、表現こそ違えど、何らかの共通する意識の実態を指し示しているのではないか、という感覚に至ることもある。しかし、その「共通する形而上的意識の実態」という理解さえも、自分自身が作り出した最後の曼荼羅なのかもしれない。「すべての思想の奥には同じ実態がある」という理解によって、異なる思想を自分の理論の中に回収してしまえば、それもまた「オレ様流解釈」の新たなタコツボになり得る。

だから、形而上的な意識の実態についても、断定するのではなく、つねに問いとして開いておく。その意味で、他者の思考をたどることは、単なるテキストの文献学的解釈の技法ではない。自分の個的な意識の志向性を一旦停止し、他者の意識の立ち位置へ入り、そこから再び自分自身を見返すことによって、言語や概念によって固定された世界認識を解体していく、一種の道(修道)なのだと思う。その道の先に「形而上的な意識の実態」があるのかどうか。あるいは、「それがある」という理解そのものが、最後に残った仏教でいう「我執」なのかもしれない。

そこまで含めて問い続けることこそが、古典のテキストを読むときに重要だけれどもあまり行われないものである。

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