現代中医学と古典における昇精と納気の違いについて
中医弁証の昇清や納気などの概念は古典にあるのですか?
ご質問のポイントは「中医弁証の昇清や納気などの概念」であって、古典の「昇清や納気などの概念」ではないことにあるのではと思います。つまり現代中医学では昇精や納気を現代医学的に意味づけなおすことにあるのではということです。
現代中医では昇精の精は飲食物の栄養成分、納気は肺で吸収した酸素を腹腔内へ送り込む作用と考えているようです。ところが古典世界、たとえば『神農本草経』では五味五性で記述されていますが、これは食物を形と気にわけたときの気の状態を分類化したものだと思うのです。これは栄養素とイコールではないでしょう。同じように納気の気もあくまで気であって、酸素のようなものではない。こういったことを踏まえて「中医弁証の昇清や納気などの概念」を考えると、どちらも唯物論的に考えたものであります。古典でそういう視点で納気や昇精について語られてやことがあるのかどうかということになろうかと思います。不勉強で現代中医学が作られる前にそのような書物があったとしても清朝以降になるんじゃないですかね?