黄老思想における天人相関説の基本構造と『黄帝内経』

『国語』越語下篇における天道論の基本構造

今から30年ほど前、出土文献を元にした黄老思想研究の先駆的研究者である淺野裕一先生が『黄老道の成立と展開』を出版された。その冒頭で、『国語』越語下篇の以下の文章を引用しながら黄老思想の原型を解説しておられる。

四封之外、敵國之制、立断之事、因陰陽之恒、順天地之常。柔而不屈、彊而不剛、德虐之行、因以爲常。死生因天地之刑。天因人、聖人因天。人自生之、天地形之、聖人因而成之。是故戰勝而不報、取地而不反、兵勝於外、福生於内、用力甚少而名聲章明。(中略) 彊索者不祥、得時不成、反受其殃。

これによれば、「天は人に因り、聖人は天に因る。人は自ら之を生じて、天地は之を形し、聖人は困りて之を成す」と、天は人間界の動静に對して豫兆を啓示し、聖人はその兆から天の意向を読み取り、それを君主に實践させる、との關係が設定されている。君主が聖人の言に従い、天の意志に沿って行動した場合は、「兵は外に勝ちて、福は内に生ず」との天賞を獲得するが、もし君主が聖人の豫言を聞き入れず、天の意向に背反した場合には、「彊いて索むる者は不祥なり。 時を得て成さざれば、反りて其の映を受く」と、天は災映を降してこれを懲罰するとされる。このように、豫兆と賞罰を伴う強烈な天人相關思想を基底とする所に、范蠡思想の第一の特色が存在するが、この天人相關思想の内容をより仔細に検討するとき、そこにはさらに多くの特色が浮かび上がってくる。

『黄老道の成立と展開』淺野裕一 p20-21

古風な文体であるが、浅野先生は次のように図式化なさる。

上帝(宇宙の主催者)

天(周期運動體)

地(萬物の生成者)

天道(天地の恒常的理法)

聖人

君主

民・萬物 

『黄老道の成立と展開』淺野裕一 p23

これは要約すると次のような意味だろう。

  • 上帝・天帝という宇宙の主催者である人格神がいて、天地の現象を創造し司る。
  • 天体の周期運動である日月・四時などを司る天と、萬物を生み出す地が存在し、両者が交わって現象世界が生じる。
  • 天地が正しく交わる理法としての天道がある。
  • 天道に反した行いをすると上帝の怒りを買って、天地に災いが生じる。
  • 聖人は天道を知るものであり、世を治める君主は聖人から天道にしたがった政治を教わり行うべきである。背いた政治を行うと天は罰として災いを起こす。

天道に沿った政治を行う使命を担う君主が天命を担う君主であり、天命に反すると命が別の君主に移り、革(あらた)めらる。これを革命という。このような発想は『詩経』『書経』『墨子』などの古典にも類型が描かれており、古代中国の中原に広まっていた考え方なのだろう。

『老子』の基本構造

『黄帝内経』は黄老思想にもとづくものとはいえ、上記のような考えにもとづいて書かれているわけではない。しかし『老子』で以下のように展開されると『黄帝内経』に直結するものになる。

道ーー天地ーー天道ーー聖人ーー侯王ーー民・萬物 

『黄老道の成立と展開』淺野裕一 p30

上記の『老子』の基本構造をわかりやすく述べると以下のようになるだろう。

  • 『老子』では現象世界を超えた根源的な存在場を道とする。
  • 道から気の働きによって天地が生じる。『老子』ではこの気の働きを徳という。『老子』を『道徳経』というのもここから来ている。『老子』における道徳は道と徳(気)ということであって、現代日本語における倫理的意味を有する道徳とは全く違う概念なので要注意。
  • 天地が交流する場が人で、ここに天地人の三才思想がみられる。
  • 天地の理法に則った交流の場の状態を天道という。
  • 人が天道に反する生き方をすれば災いが生じる。天道に則った生き方をするのが道に則った生き方であり、これを知る人間が聖人である。
  • 為政者(侯王)は天道に則った生き方・政治をすれば治世が長続きする。反する生き方をすれば為政者本人および国に災いが生じる。
  • 為政者は天道に則った生き方をするために聖人から教えを受けるべきである。

『国語』越語下篇にみられる人格神的な概念が道という現代人からすれば抽象的ともとらえられる概念に変えられている。これによって天道が人を拘束する宗教的概念から人が対処すべき自然哲学的概念に変えられ、人間の意識の根源を「道」の分有とすることによって、修道的なありかたに移行しているとみることができるだろう。道は仏教でいう空、道の分有意識は如来蔵と同型のになっているように思われる。

『老子』と『黄帝内経』

いずれにせよ天道に沿った生き方をすべきことをのべる『老子』が、なぜ『黄帝内経』の基本構造につながるのか?

ひとつは『黄帝内経』のほとんどは黄帝と岐伯の問答スタイルで描かれている点である。これは『老子』における為政者と聖人の関係と同じである。黄帝は地上を治める為政者であることは容易に想像つくだろう。では岐伯はどういう立場なのか?上記の言葉を用いると、侯王(黄帝)に天道を伝える聖人と見るべきものなのである。岐伯は単なる医学教員・指導医ではないと見るべきである。

そもそも岐伯という名前自体が聖人を表している言葉と思われる。中原には岐山という山があるが、ここは古来仙人、つまり聖人が住む山とされてきた。岐伯という名前には「仙人のおじさん」というニュアンスがある。

もうひとつには『黄帝内経』は天道にのっとった生き方をすることが述べられた書物であるということ、つまり天地人の道理ににのっとった生き方をすべきことを、医学視点から述べられている。

天道の概念は『黄帝内経』にたくさん出てくるが、天道という言葉を使っている篇もいくつかある。たとえば『霊枢経脈別論篇』に次のような一説がある。

黄帝問于岐伯曰.余聞人之合于天道也.内有五藏.以應五音五色五時五味五位也.外有六府.以應六律.六律建陰陽諸經.而合之十二月.十二辰.十二節.十二經水.十二時.十二經脉者.此五藏六府之所以應天道。

黄帝が岐伯に質問する。「私は人の体がが天道にのっとっていると聞く。内には五蔵があって五音・五色・五時・五味・五位に応じている。外には六府があって六律(六音階)に応じ、六律は六陰と六陽にわけられるので手足の六つの陰経と六つの陽経に相応し、十二経は十二か月・十二支・十二節(二十四節季中の十二節)・十二經水・十二時(一日の時間を十二等分する)に相応する。この十二経脉は五藏六府と相応するが、この相応関係を天道という。

『霊枢』 経脈別論論篇

黄帝が岐伯に「自然界の地の五行と天の十二気が人体の陰陽十二経絡と六蔵六府が相応しているという説があるが、これはどういうことであるか?」と質問する部分である。

以前書いた六季の治療の記事は自然界の六季(天の六気・六季)を、人体の蔵府経絡に相応させるための例である。「天道」にのっとった治療の一例としてお読みいただけたらうれしいです。

最後に

黄老思想と内経の関係を述べた日本語文献はほとんどない。松田博公先生が詳細に調べ上げた講義資料があるくらいではなかろうか?たとえば下記のサイトから松塾のページをたどって読める。

『日本内経医学会講義資料 黄帝とは誰なのか』あたりに古典文献をふんだんに引用しながら考察なさっているので是非ともご覧いただきたい。

リンク:東京都はり・きゅう・あん摩マッサージ指圧師会 松塾・杉塾

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