「気口九道脉診は初心者向けの脉診として“経絡の阻滞を診るもの”」として語られて来たし私自身もそう説明してきたけれども、私自身としてはそれは方便である。気口九道脉診では臓腑配当されているけど、気口九道脉診を作った流儀の口伝ではそれは重要でないとされている。
一般には晋代の王叔和の『脈経』や明代の李時珍の『奇経八脈考』あたりをもとに語られるんだけれども、臓腑配当に重点が置かれている記述であるので、解釈がそれに引きずられてしまう。こういうことが古代の思想を文献学的に読み解こうとするときに陥りやすい点である。
それはともかく謎を解く鍵は経絡学説の蔵府配当にある。三陰三陽に蔵府が当てられたのは『霊枢』の経脈篇からではないかというのが、文献学的にはほぼ定説となっている模様である。
経脈篇より古いとされる馬王堆墳墓から出土した『足臂十一脈灸經』では三陰三陽をもとにして経脈が語られている。経脈と蔵府はもともと別だったのではということだ。足太陽膀胱経というとき、一番重要なのは太陽経ということで、膀胱経が方便で、臓器の膀胱とは関係ない。
じゃあこの三陰三陽は何を表していたのか?という話になる。ここから先は、いにしえからの口伝になっていて文献学的な裏付けはたぶんない。ただこの三陰三陽は『傷寒論』の三陰三陽とルーツは同じもので、解くヒントは『傷寒論』の条文の中にある。
昔、「気口九道は⚫︎⚫︎派の入門的基本脈診法で古い時代のもの」と教わったけれどもどういう意味かわからずに「ふ〜ん」としか思わざるをえなかった。しかし何年か経って気口九道の原型の脉診法を教わったときに「あっ!」と思った。「“これと経脈がこういうふうに結びつくんだ、そりゃそうだ」と。師匠に結構くらいついたら解剖学的に何を指すのかも教えてくれた。それをもとに運用してみるとびっくりした。そういえば『黄帝内経』と『黄庭経』との関係を教わったときにもそういうことがあった。それは岐伯と黄帝の関係と関連していた。
古い古典を読むときに重要なのは、その理論が生み出された時代と書かれた時代とは違うものがたくさんあるということだ。それは数百年にわたることもある。仏典だって最初に文字として記されたのは釈尊の入滅後300年くらい経ってからだ。現存資料としてはだが。それまでは口承伝授、口伝だった。
口伝をこじつけや想像の産物と見るか見ないかは個々人の内的資質と関連している。どう捉えるかは先入観を排した論理的思考と芸術的センスが必要である。今の日本でも1000年以上にわたって積み上げられた口伝がいくつもある。冷泉家の和歌にもそういう口伝があるとなんかで読んだ覚えがある。雅楽みたいに家系・流派は残っているが失伝した口伝もたくさんあるけど。
天皇と皇太子しか知らない口伝もあるんじゃなかろうか?まあ世の中は広い。一般人が知らない1000年超える口伝なんて探せばいくらでも出てくるのでは?