気とはなんでしょうか?
気を感じたいのになぜ感じられないのでしょうか?
気の感覚を訓練する方法はありますでしょうか?
古代の中国哲学では現象世界を生み出している一切の根源を気と考えているので、その定義については、話をどこまで広げるかによって違ってきますね。いわゆる五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)で感じられるいわゆる物理現象世界、さらにそれを超えた霊や霊的現象世界も含めて、気の働きによって現象しているというのが、中国の古代哲学の基本としてあります。ご質問はたぶんそこまで広げておられなくって、私自身や患者さんの「気」、あるいは自然の気を感じ取ることが出来るようになるにはどうしたらよいか、というご質問かと思います。結論から言うと、私はそういうものに対する感覚はけっこうすぐれている方のようです。
人体の気(霊的な身体)のことを中国医学では精(現代中医の定義ではない)または魄といい、これを分節化して営衛といったり蔵気・府気といったり宗気といったり細分化して考えるのが基本です。魄のニュアンスは骨(肉体を構成する物質)+鬼(肉体を生命化する霊的働き=気)といった感じです。インドではプラーナ、神智学=人智学ではエーテル体なんて呼んでいますね。こういうものについての感覚体験がないと、中国医学の本質を感覚的に理解しにくいですよね。それをどうするのかが、中国医学を志す人たちの大きな悩みの種ではあります。
ここでは話を単純化するために、中国哲学の伝統にのっとって肉体の物質的分を形、霊的部分を気と呼んでおきましょう。肉体は気と形によって生命活動をしているという発想です。形の部分は五感が働く限り知覚できるわけですが、気はちかくしずらいし、”出来る”という人もどこまで性格に知覚できているかは微妙なところです。
そこで「気の感覚を鍛えるにはどうすればいいか」ということですが、気の感覚の優れた鍼灸の先輩たちは、「太極拳や気功、あるいはヨーガなんかをやって身につけましょう」って、アドバイスすることが多いかと思います。私もそのようにアドバイスすることが多いのですが、何年・何十年もやっていて、「よくわからん」という方も多いですね。なんでそうなるのか、それを克服するにはどうしたらどうしたらいいのか、インドではこういうことについて2000年以上にもわたって激論を交わし、言語化・論理化してきました。その一端についてお話しましょう。
インドでは身体と心を、粗雑(粗大)な対象(身体)と粗雑な心、微細な対象(身体)と微細な心という区別する伝統があります。粗雑な対象とは人でいえば物質的な肉体のことで、中国哲学では上で書いた形です。粗雑な心は粗雑な対象を知覚する肉体の感覚、五感のことです。それに対して微細な対象というのはチャクラやスシュムナーやナディーなことで、中国哲学の気のことです。微細な心はそれを知覚する心のことです。
人の粗雑な心にしろ微細な心にしろ、粗雑な身体や微細な身体に影響されていてそれから自由になれません。それがわたしたちの心の状態なのです。中国医学風にいえば、形や気の動きに心がとらわれて自由にそれらを観察したりコントロールしたり出来ないのです。インドのほとんどの宗教では不自由な心を逃れて解脱をもとめる修行をします。その方法が瞑想なんです。瞑想して不自由な心をコントロールしようとするのですね。ちなみに粗雑な心をサンスクリットではvitarka(尋)、微細な心をvicāra(伺)といいます。粗雑な心にとらわれている状態が有尋、とらわれなくなる状態のを無尋、微細な心にとらわれている状態が有伺、とらわれない状態が無伺といいます。瞑想の第一の目的が無尋無伺、つまり不自由な心から離れる意識を育てる瞑想をします。これを達成した境地を仏教では四つある禅定の段階の第一である初禅と呼んで、喜(pīti)楽(sukha)という境地に至ります
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さて以上を踏まえて太極拳や気功・ヨーガのエクササイズの話になるんですけど、大きなポイントがふたつあります。ひとつは動きに応じて身体を観察し、粗雑な身体と微細な身体、つまり中国医学でいう形と気の動きに注意を向けることなのです。気の感覚がなかなか分からない人は、粗雑な身体に粗雑な心が支配されて、微細な心があまり働いていないのです。だから微細な対象に意識を向けて微細な心を育てる必要があるのです。
ポイントのもうひとつは呼吸にあわせて身体を動かすということです。肉体(形)を動かしたら気も動くのですが、気の感覚が乏しい人はその感覚がわからないんです。でも、気功やヨーガの動作をする際に呼吸に合わせることによって気も意識化出来るようになり、意識的コントロールができるようになります。
お釈迦様の時代から随息観という呼吸に意識を向ける瞑想がありました。禅寺で坐禅を体験された方は習ったかもしれません。これは呼吸に意識を向けることにより身体を構成している気の状態を観察し、動かす瞑想法です。中国医学では身体を構成している気のマッピングを内景と呼びます。気の身体が内景、形の身体が外景です。中国医学で五行の五神のところで肺に魄をあてているのは呼吸と関係しているからです。形に最も近いのは腎です。それぞれ気と形に対応していて、気と形は営衛の働きによって交流するってことです。
気功で偏差っていう言葉を聞いたことがないでしょうか?気功やヨーガなどで気を動かすことに注目しすぎると、身体=形と気のバランスが悪くなって病的な症状がでてくることです。瞑想しててもそうなるので、インドではお釈迦様の時代にはそういうのを改善する瞑想法が生み出されていました。気を感覚できるようになって操作できるようになると、気をコントロールして身体に影響を与えることが出来るわけです。気から形へ、形から気へ、意識的にコントロールできるようにする技法がよーがであったり、太極拳や気功法であったりするわけです。中国の古い時代は気功法を導引、呼吸法を吐納とよんでいました。導引吐納を治めることが中国医学の技術者に求められていた教養でした。
※上の尋と伺の解釈は密教的な視点です。視点によっていくつかの定義がなされています。