「心神喪失と中国医学・鍼灸医学」というコラムで心神という用語は中国医学・鍼灸医学由来の言葉だとして、神の本来のニュアンスを以下のように書きました。
神は二種類の意味があります。ひとつは人の根源的な意識、インドでいうアートマンみたいなニュアンスですが、これは難しいのでおいておきます。もうひとつは起きているときの意識で何かを考えたり判断するときの理性的な意識を神といいます。心神というときの神は後者の方です。精神というときの神も同じです。
心神喪失と中国医学・鍼灸医学
今回は精神という言葉です。精神という言葉は前漢時代以前から使われていたようです。古典の使用例を検索すると、いづれも人間のスピリチュアルな部分の状態を表す用語だったようです。としますと、精神の神に関しては「人の根源的な意識、インドでいうアートマンみたいなニュアンス」を持っていたということです。理性的な意識という意味での神ではなくて、霊的・根源的意識というニュアンスを持った神です。道家では道(タオ)を分有する意識というニュアンスがあったようです。
それに対して精神の精の方は、白川静先生の『字統』では、
〔説文〕七上に米を択ぶ意とし、すべての五穀の美なるものをいう。
『字統』普及版 新装版6刷 P500
と、『説文解字』の解釈を引用しています。現代人の感覚なら五穀の栄養物質とイメージするかもしれませんが、中国の古代の人々は五穀に宿る気・霊といったシャーマニスティックなニュアンスで理解していたと、個人的には考えています。日本でもたとえば稲霊信仰がありました(稲についた麹菌の胞子の固まりの稲霊とは別物)。中国医学では食物に五味(酸苦甘辛鹹)を当てはめますが、これは食べ物に宿る気の状態を表す用語でもあります。
現代のわれわれは、飲み食いするとそこから栄養分が吸収されると考えますが、古代人は自然界に宿る気を食べていたという認識だったのです。食べ物に宿る気=精を食べて肉体を作ると考えたんです。
前回でも少し触れたのですけれども、人間の肉体をわれわれが普段知ることのできる解剖学的な肉体と、それを生命たらしめている気、霊的な肉体を魄とよびました。肉体はこの両者によって形成されていると古代の中国人は考えました。そしてこの解剖学的な肉体と魄を結びつけるのが精です。魄の働きによって飲食物から精が取り出され、精から解剖学的肉体が形成され、解剖学的肉体から魄が作られる。魄ー精ー解剖学的肉体という相互の循環によって人間の肉体が作られているのです。そこに人間の神が宿ると中国古代の人は考えました。
以上をふまえて精神という言葉に戻ると、スピリチュアルな肉体に宿るのが神なので精神、純粋で根源的な意識というニュアンスになります。
明治時代に西洋の学問の用語を翻訳するときに、上記で書いたようなどこかスピリチュアルなニュアンスを含ませるために精神という用語をあてたのではと想像します(以下は想像なので違ってたら教えてください)。
たとえばヘーゲルの『精神現象学』の原題は『Phänomenologie des Geistes(英:The Phenomenology of Spirit)』です。精神医学の原語は「独:Psychiatrie (英:Psychiatry)」です。『精神現象学』の精神にあてられているドイツ語のGeistも英語のSpiritもどちらも霊的なニュアンスのある単語です(通常の意識・心理という意味でも使いますが)。本の内容もそうです。精神医学の訳語である「独:Psychiatrie (英:Psychiatry)」はギリシャ語のプシケーPsycheに由来する呼吸を表す言葉でそこから派生して生命という意味が生まれ、さらに心や魂のことを意味するようになりました。Geist・Spiritほど霊的なニュアンスはなくても、やや心霊的なニュアンスがあります。精神医学の原語であるPsychiatrie・Psychiatryはもともとそういうニュアンスがあったのかもしてません。だから最初に訳語をつけたときに精神を当てはめた可能性はあります。しかし現在の精神医学では基本的にそういうものを取り扱わないのが普通なので、日常的な意識を表すニュアンスにかわってきているのかもしれません。
追記
「精神は中国医学・鍼灸医学に由来する言葉」と書きましたけれども、医書以外の古典にも使われているので、「精神」という用語は当時は一般的な概念としてに使われていたのでしょう。