不眠の治療で有名な経穴(ツボ)に失眠穴があります。踵(かかと)の中央部にあります。対処療法的なツボとして鍼灸師はよく使います。
なぜ踵で不眠が治るかですが、ある種の不眠は気が上昇して神経が興奮して収まらないので、踵にお灸をして気を下げると考えられます。気の昇降を状態を追いながら治療できる鍼灸師は少ないと思いますが、適当にやっても効くことも多いです。誤治で変な方向に行くこともあまりないので(効かないことはありますが)、一般の方が「せんねん灸」などで自宅施灸するのもいいでしょう。
この経穴の出典は知りませんけれども、『荘子』にこんな文章があります。
(原文)古之眞人、其寢不夢、其覺无憂。其食不甘、其息深深。眞人之息以踵、衆人之息以喉。屈服者其隘言若哇、其耆欲深者、其天機淺。
(書き下し文)古の真人は、其の寝ぬるや夢みず、其の覚むるや憂い无し。其の食らうや甘しとせず、其きびすの息するや深深たり。真人の息するは踵を以てするも、衆人の息するは喉を以てす。屈服する者は、其の嘘言すること哇くが若く、其の耆(嗜) 欲深き者は、其の天機浅し 。
(現代語訳)上古の真人は、身心ともに外界の事物に引きずられることがないから、寝ては夢にうなされず、覚めては憂いに悶えず、食べては味に構わず、その呼吸は深々として安らかである。
真人の呼吸は、踵の底から生気を全身に行きわたらせるが、大衆の呼吸は浅く、喉の先であえぐばかりだ。また、人との争いに敗れて屈服した者は、苦しまぎれに喉を詰まらせて もの言うさまがあたかもゲロを吐くかのようであり、飲食の欲望に取りつかれた者は、天から与えられた生の営みがかえってひ弱である。
385
『荘子』大宗師第六 池田和久訳著 講談社学術文庫 P385
踵に意識を集中することによって体内の気を肉体に向けて収れんさせ、健康な状態を保てるようにする呼吸法のことです。荘子は仙人ですから、仙学の基本的な呼吸法と考えればいいでしょう。これをうまくやるには呼吸やイメージの仕方に口伝がありますが、気功法ならったりすると入門的な套路の中に組み込まれていることもあります。
このような呼吸法は、後に道教や仏教にも取り入れられたようです。たとえば隋から唐の初期に活躍した高僧の天台大師智顗の止観の書には、ふだんの生活や瞑想修行で気が上昇して降りなくなり、体調を崩した場合の対処法として挙げられています。智顗の止観書は、東アジア圏の仏止観書の基本書物として後代に多大な影響を与えました。