中国の伝統医学・伝承医学の伝統や伝承を担保するということ(2)

先日、「中国の伝統医学・伝承医学の伝統や伝承を担保するということ」という題で、中国の伝承医学における血脈相承について書きました。伝統文化を学ぶ人間には当たり前のことだと思っていたのですが、鍼灸師でもご存じない方が結構いらっしゃったようです。

  • 免許皆伝でその技術を教える資格を持ったものの系譜があり、その人たちのもとには無名の弟子たちがたくさんいた。
  • 伝えられている技術の多くは弟子にならないと伝えられてもらえないものである。弟子になることが入”門”であり、流儀の門内に入ることであり、門の外にいる人たちを「門外漢」という。
  • 弟子になったからといって全部教えてもらえるわけではない。人には機根、学ぶ能力というものがある。

というのが重要なポイントでした。ところが、そういうことを全く意識せずに「文献を読めば分かる」という思いがあるからか、

『黄帝内経』を作った人たちから教えを受けた人たちの流儀の末裔といっても、過去に存在した事象を把握し筋道を立てるのに役立つ史料といった証拠がないかぎり、捏造・妄想の系譜だろう。


と考える文献学の大御所みたいな方は一定数いらっしゃいます。これは仏教を学んでいるときにもよく出くわします。

このような考え方になるのは分からなくはないですが、いくつかの問題点を含んでいます。

まず伝承文化を学ぶにあたって血脈相承の門の中に入ることが非学問的態度であるということはありません。たとえば宗教学や古典文献学の研究者が、文献を見たり深い教えを学ぶために、血脈相承の門内に入ることは多々あります。

たとえば、人類学者のカルロス・カスタネダは、呪術師ドン・ファン・マトゥスの弟子になって、その体験を本にして世界的なベストセラーになりました。東大系の哲学者でカバラを研究していた大沼忠弘氏はカバラの伝承者から教えを受けて、文献研究にとどまらないカバリストになりました。やはり東大系の宗教学の研究者だった永沢哲氏や中沢新一氏はチベット仏教徒になりました。ジャイナ教徒になった学者や道教徒になった学者もいます。そういった研究者たちが、門内で学んだことをもとに公開できる範囲で論文や一般向けの本を書いたりしています。

もうひとつの問題点はテクストの問題です。古い文献や宗教的文献は、書物として門外に出すときに、門内の人にしか分からない象徴的表現をとったり、わざと間違って書いたりすることがあります。

たとえば、仏教の密教の儀軌、つまり修行したり祈祷したりする次第書はだれでも読める形で公開されています。その解説書もないわけではありません。しかしそれを読んだからといって、出家して師から伝授をうけずに、その行法を行じたり祈祷したりできると考える密教僧は皆無でしょう。なぜならそこに書いていない深い意味が背景にあり、師の伝授を受けないとわからないようになっているからです。また、効果が出ないようなかたちで公開されていることもあるようで、それは師から「ここは本当はこう読む」みたいなことを教わらないとほとんど意味がないということもあるようです。逆に師もなしにやると危険だったり。

伝承文化、特に医学や武術というのは、昔はその内容が外に漏れると流儀の存亡や命に関わる問題でもありました。

中国医学の話に戻りますけれども、古い医書、特に『黄帝内経』『難経』『傷寒雑病論』あたりは何度も編纂しなおされたということもありますけれども、それを文脈にそって臨床に使うのは難しい。しかし嘘か本当か分からないけれども、古い伝承医学の流儀の人から教えを受ければ読み解けるものは多々あるのです。もし「証拠を」というのであれば、前回書いたように、そういう経験を積んで読み解こうとする以外にないのです。ある種の古典は書いてあることを文献学的に研究しても臨床で使えるような記述はなっていない(していない)。それが現代とは大きく違う点です。

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