『霊枢』本神篇講義1 ~本神とは何か?~

本稿は、令和6年5月の25日に、私がオブザーバーを務める仏教サロン京都での講義をまとめたものの一部です(連載予定)。そのときに使用した『霊枢』本神篇の超訳バージョンを以下にアップしてあります。

目次

『霊枢』本神篇講義1

本神とはなにか?

『霊枢』本神篇の本神とは「(人は)神を本(もと・本質)となす」ということで、人間の構成要素の根源、あるいは治療の目的・本質は治神であるという意味です。ですから、中国医学でいう人間の神とは、いわゆる宗教的な「天の神」という意味ではありません。ただし天の神の分有と考えて「神」という言葉が使われた可能性が高いようです。「現象世界にあまねく働きかける生命エネルギー」みたいな表現をする方もいますが「生命エネルギー」だと専門家も含めて、肉体を生命たらしめている構成要素である魄、インドでいうプラーナをイメージしてしまうことが多いので誤解を生みやすいかもしれません。そこで個人的には霊といいたいのですが、現代の日本語だと霊に対する概念が悪霊とか怨霊などといった現象世界的な業にまみれた霊といったニュアンスにを持つことが多いので、霊も中国医学の神とは違った意味でとらえられそうです。神道の和霊(にぎみたま)が近いかもしませんがやはりしっくりしません。

しかし他の国ならないことはないです。たとえばインドの思想でいうアートマン(ātman)は神とほぼ同じようなニュアンスです。アートマンとは業によって成立する現象世界を超えた神であるブラフマンの分有である人の根源的意識で、心と体・自我を滅したときに顕現する人間の根源です。中国医学でいう神はそういった概念です。そういう意味で神気とよんでみてもいいかもしれません。

なぜこのようになるかというと、日本の宗教思想にはアートマンに相当するような概念がほとんど見られないからだと思います。アートマンの訳語も真我などと造語されています。

さらに内経の中で人の神を考えるには黄老思想のなかでどう考えればいいかという点も重要です。これらの点についてちょっと考察してみましょう。

古代中国の上天・上帝思想

もともと中国には上天・上帝思想というものがありました。出土文献研究の大家でもある浅野裕一先生の『古代中国の宇宙論』(岩波書店)に記述されている上天・上帝思想をまとめると以下のようなものです。

1)「上天・上帝は、ユダヤ教のヤハウェ、キリスト教の神、イスラム教のアッラーなどと同じく、意志や感情を持つ人格神であり、なおかつ身体・形象を持たない形而上的存在とされる。」

2)「帝」という文字は、「殷王朝の時代には殷王の祖先(先王たち)の霊を指して」いた。

3)上帝とは「多神教的世界における最上の神霊の意味」であった。

4)殷の時代における天は『説文解字』によると「人の頭頂部を強調した形で、「大」と同義で用いられる例が多く、周代以降の絶対神の意味は全く見いだせない」。

5)周以降の人々には上天と上帝は同一の神格と理解された。上記のために、同一の神が上天と上帝というふたつの名称を持つ。

6)上天・上帝思想は墨家や儒家などが受け継いだ。

地上生活を治める帝は、神の意志に沿った政治をおかなわないと神の怒りにふれ、世に悪いことが起きると考えるようになりました。さらに神の意志に沿った政治とは陰陽五行などの数術的リズムにもとづいてものである必要があると考えるようになりました。もし、帝が神の意志(天命)に沿えなくなると、神の意志に沿うことができる新しい帝に取って代わられます。これを革命(天命を革(あらた)める)といいます。

ここで重要なのは「地上世界を治める帝は陰陽五行といった、数術的リズムにもとづいて政治を行う」ということです。

道家思想の道の思想と道器論

道家思想、黄老思想には「道(TAO)」という概念があります。この「道」という言葉は、上天・上帝の概念を置き換えたものだと思われます。いわゆる『老子』は『道徳経』ともいいますが、なぜ『道徳経』というかというと、「この世、現象世界は「徳(=気)」の働きによって道から流出する」という考えが基本的にあるからです。次はそれを表す『老子』の有名な一節です。

五十一章
「道之を生じて、徳之を畜(やしな)い、物之に形(あら)われて、器之になる。是(ここ)を以て万物は道を尊びて(徳を)貴ぶ。」(『老子』池田和久講談社学術文庫 p208)

四十二章
「道は一を生じ、一は二を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱き、冲気以て和をなす」(同 p150)

上に記した五十一章の一節をもとにして「道器論」という言葉が使われるようになりました。「道」から、徳の働きによって現象世界=器が生じるので道器論とよびます。さらに、「器は人の作為を排除して数術的リズムをもつことによって道が顕現する」と考えるようになります。道家思想には無為自然という言葉があります。「人の手を加えないで、何もせずあるがままにまかせること」と解釈されていますが、のちに黄老思想では「人の作為を排除して数術的リズムにまかせることによって道が顕現する」という意味に変化していきます。

内経にみられる神の概念と神器論

『黄帝内経』の背景には黄老思想があります。黄老思想にはこの道器論が貫かれています。『黄帝内経』には、「この器を数術的にどのように分節化し、道が顕現するようにするか」というテーマが貫かれています。

そこで、この道器論イメージを人間にも当てはめ、神から心と体という神が宿る器が流出したと考えるようになりました。ここでは便宜的に神器論とよんでおくことにします(私の造語です)。神器論では道器論と同じ構造を持ち、「心もからだも数術的リズムにしたがうことによって神(神気)が正常に働く・顕現する」と考えるようになります。心身が数術的リズムにのっとって神が正常に働ける状態になっていることを、「神気」が満ちていると表現します。そのような心と体を作ることを『黄帝内経』では治神とよびます。「神気がみちた心とからだを作る治神」が『黄帝内経』のテーマのひとつなわけです。

まとめ

以上のことをまとめると、以下のようになるでしょう。

・古代中国には上天・上帝思想というものがあり、地上世界を治める帝は陰陽五行といった、数術的リズムにもとづいて政治を行うのを理想とし、それに反すると災いが起きると考えた。

・道家・黄老思想においてはこの上天・上帝思想が道という概念にかわり、道から徳(気)の働きによって生じる現象世界(器)は数術的リズムにもとづいて統治することによって現象世界に「道」が顕現すると考えるようになった(道器論)。

・『黄帝内経』では道器論を人にも当てはめ、「心もからだも数術的リズムにしたがうことによって神(神気)が正常に働く・顕現する」と考えるようになった(神器論)。

・そのような神気が満ちる心身をつくること、そのような人によってこの世を統治する人を作ることが『黄帝内経』に流れるテーマである。

(「『霊枢』本神論篇講義」つづく)

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