インドの三徳(triguṇa)説と老子の徳との関係

サーンキャなんかのtriguṇa説、つまり sattva・rajas・tamasと展開される説を三徳説と訳されることがあるが、この徳という用語は道家の徳のニュアンスを援用したものではなかろうか?道から万物が展開する働き・機能を徳という。『老子』を『道徳経』と呼ぶのもそれからきている。triguṇa説を三徳説と訳した初出はどこなのか?儒家だと仁義なんかのいわゆる“道徳”的特性を徳と呼んでいるので、ニュアンスが違ってくる。

とtwitterに書いたら某大学の先生からguṇaは属性・性質のことで質料(実体)であり、形相ではないのではとアドバイスをいただいた。ところが数日後立川武蔵先生の『ヨーガの哲学』を読んでいると、こんな記述を見つけた。長いけれども引用してみよう。

根本物質としての原質

さて、世界の実質的形成はもう一つの原理である原質によっておこなわれる。サーンキャ哲学によれば、「原質」とよばれる根本物質が自らを変形、変質させた結果が、この現象世界なのである。原質のなかにはもともと世界構造のプランが組みこまれており、その状況に対応してそのプランが実行にうつされる。原質には、世界形成の素材としての質料因であるとともに、世界形成の動力因でもあるという二面が存在している。

「原質」を「物質」とおきかえることには問題がある。なぜならば、われわれの感覚、意欲、認識などは、すべて原質のはたらきだからだ。 「わたしは霊我である」と思うことは、原質の「思いあがり」であるが、やはりまぎれもなく原質の作用であり、霊我のあずかり知らぬことである。

原質は「グナ」とよばれる三つの要素によって構成されている。「グナ」とは哲学的には属性、性質を意味し、しばしば属性が存する基体としての実体(ドラヴヤ)と対になる概念である。

たとえば、「花が赤い」という事態は、インドでは、「地」の要素でできた花に赤色という色彩が「のっている」というように表象されるが、ここで赤色――赤色のものではなく、色素赤――はグナ(属性)であり、花は「地」というドラヴヤ(実体)である。

実体と属性との関係は、インド哲学の根本問題であった。ある者たちは、この両者のあいだには厳然とした区別があると主張し、ほかの者たちはその両者の本質的区別は存在しないと考えた。前者には論理学派(ニヤーヤ学派)や自然哲学派(ヴァイシューシカ学派)が属し、後者にはヴェーダーンタ学派や仏教が属する。

この問題に関して、サーンキャ学派および古典ヨーガ学派は、どちらかといえば、後者のグループに属する。つまり、属性とその基体とのあいだの本質的相違を認めようとはしない傾向が強い。したがって、サーンキャ哲学において「グナ」とは、原質の属性、様態を指すと同時に、属性様態の基体としての原質そのものをも指している。原質を構成する三つの要素とは、つぎの「三つのグナ」 (三徳)である。

一、純質(サットヴァ)―――知性、「光輝」の要素
二、激質(ラジャス) ―――経験、動力の要素
三、暗質(タマス)―――慣性、「暗黒」の要素

宇宙の展開の根本素材である原質は、現象世界へと展開(転)する以前は、「未顕現なもの(アヴィヤクタ)」とよばれる。具体的なかたちをとってあらわれていない、原初の質料因である。アヴィヤクタの状態においては、かの三つのグナは完全な均衡状態にある。

立川武蔵著 『ヨーガの哲学』講談社学術文庫

以上の記述によると、実態と性質(guṇa)という属性のあいだに区別があるかどうかは学派によると立川先生はお考えのようだ。また、最後の部分からは、prakṛtiから展開したみっつのguṇaは根本質料因とお考えておられるように思う。しかしこのみっつのguṇaからさらに世界が展開するのならguṇaは形相因になるのではなかろうか。

つまりプラクリティとtriguṇaの間では形相と質料の関係だけど、triguṇaとから展開される世界のと間ではtriguṇaが形相因になるのでは。

いずれにせよ『老子』に記述されている道器論の徳の概念と、サーンキャの三徳(triguṇa)説の徳(guṇa)とはかなり似ているように思われる。

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