黄老思想における道器論と陰陽論・三才思想(その3)

中華伝承医学入門講座の講義ノートより

目次

気~中国的イデア論

あまり指摘されていないと思いますが、中国における気の思想は、西欧におけるイデア論と同質のもので、中国的イデア論といってもいいでしょう。

イデア論というのは、イデアという現象世界を現象させている真なる世界・本質(=イデア)があって、現象世界はそれによって作られているという考え方です。古代のギリシャ哲学に発し、プラトンとアリストテレスによって壮大な体系が作られ、中世キリスト教の神学にまで影響を与えました。中世ヨーロッパまでは主流だった哲学思想です。現象された物を示す質料(ヒュレー)と対応させて形相(エイドス)ともいいます。

同様の考え方はインドなどにもあり、洋の東西を問わず古代から中世にかけて主流の考え方でした。中国の古代哲学では、気が形相=イデアに相当し、形が質料に相当します。アリストテレスの『形而上学』などは気の思想を考える参考になると思います

形と気 認識論的に考えることと存在論的に考えること

上記のことを深めていくと「なぜ本来は一のものが形と気という二つのものに見えるのか」という問いが生じます。これについては存在論的に考える観点と、認識論的に考える観点とがあります。洋の東西に関わらず、認識論と存在論は哲学・宗教思想の基本命題の一つです。哲学・宗教思想を語るのに認識論と存在論の概略を知っておく必要があります

認識論は存在に対する、我々の認識のあり方を問う学問です。我々の知識の源泉を問う学問なので、知識論とも呼びます。認識論は,「真にあるものの総体を知り得ているのか」「我々が知っているということをどうやって知ることができるのか」という問いかけから発し、一般に知識の種類とそれらの妥当性・限界などを問うていきます。たとえば「気を知るとはどういうことか」「気を認識する構造はどういうものか」、と問う観点です。

それに対して存在論は現象そのものを問う学問です。たとえば「気とはなにか」「形とはなにか」「太極とは」と問うありかたです。

存在問題について考えようと思っても、私たちは知ることができるものでしか考えることができません。知ることができるもの、つまり認識能力の問題です。よって、存在論と認識論は深い関係にあるのです。陰陽・五行論を存在論として考えるか、認識論として考えるかによって、気一元に対する解釈が変わってくるので、きっちり押さえていく必要があります。

通常の認識論は認識能力を固定的なものとしてとらえますが、そうではなくて、修行=エクササイズによって認識能力は変えられるという立場に立つのが神秘主義的な修行論です。これが後に仙学-内丹法として修行大系が組み立てられます。内丹法にはサンスクリットの音写語もでてくるので、おそらくインドのクンダリーニ・ヨーガや無上ヨーガタントラの影響を受けて作られたのだと思います。

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